2009年1月26日 (月)

LIFE IS BEAUTIFUL!

1月26日、早朝。 父が永眠した。


最愛の・・・・なんて言葉では言い表せないほど、私にとって本当に大切で大好きな父。

赤ん坊の頃から、私の身のまわりのお世話を全てしてくれて、いつも私を守ってくれた父。

父でもあり、母でもあり、兄弟のようでもあり、そして親友のような・・・・
そんなお父さん。

小さいとき、夜中にふと目を覚まし、
『いつかは、お父さんも死んじゃうんだ・・・・』ときゅうに不安になって、怖くなって涙が止まらなくなったことがあったっけ。

とにかく、いつ、どこに行くにもお父さんと一緒だった。
知り合いや親戚にはいつも私を『おらの宝物だから』と言って歩いていた父。

父との日々を思い出すと。。。



思い出はありすぎて、そして父の溺愛ぶり(私への)が恥ずかしいほどで、泣くどころか、何だか恥ずかしくなってきて、顔がほころぶ。
そして、父の深すぎる愛情で胸がいっぱいどころか、お腹がいっぱいになってしまう(笑)

そして、ふと気がついた。
たくさんたくさんお父さんから愛情をもらった私は何て幸せものなんだろう。
今度は、私が私の子供達にたっくさんの愛情を注ぐ番なんだ!って。

だって、もうこれ以上お父さんにしてもらうことは何もないもの。



亡くなった日の朝。

雲ひとつない、水色の空。
朝日がすごくまぶしくて、病室に降り注いでいた。
穏やかに眠る父に、カーテンを開けて朝の光をあててあげた。

葬儀が終わるまでの3日間。
どの日も、とても穏やかな快晴。
火葬場からの帰り道、バスの中から眺める川はまぶしくてキラキラしていて。

空はきれいな水色だし、川はキラキラ光っているし、冬だというのに太陽がまぶしくて。

私たちを悲しませないように、お父さんがそうしたのか、それとも、お父さんの心が穏やかだからなのか・・・・

キラキラっていう言葉がピッタリの晴れた3日間。

父の気持ちと、私の気持ち・・・
それから父をとりまく人やモノ・・・
すごく温かい何かに包まれている父。



きっと、お父さんも感じていただろう。


LIFE IS BEATIFUL !



・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


じっちのことを大大大好きだったYuhiは、今朝も

『ねぇ、じっちのケガはまだ治らないの??』って聞いてきた。

4歳のYuhi。
じっちの死を理解するのはまだむずかしい。

それでも、出来るだけ分かりやすくは伝えていた。

“じっちはね、お星さまになったんだよ。
もう会えないけど、Yuhiのことをいつも見てるんだよ”


父は闘病中によく言っていた。
“この世に未練はないから、安心してくれ。俺は大丈夫だ。”と

でも、必ずそう言った後に
“でもなー Yuhiの成長は見たかったな・・・
せめて小学校入学まで・・・ それだけが心残りだな。”と淋しそうに付け足した。

Yuhiが産まれてから、まるで我が子のように(それ以上に?)Yuhiを可愛がったお父さん。

せめて動けるうちに・・・と、術後、無理をしてYuhiを山梨のトーマスランドにも連れていって、欲しがった自転車も買ってくれた。
“これはじっちが買ってあげたんだよ。忘れるなよ!”って念をおしてたっけ。

まだ幼いYuhiの記憶に自分のことを残そうと必死だったんだろう。


Yuhiにじっちのことを忘れないでいて欲しい。
これが何よりもお父さんの望みのような気がする。

ママとして、そして娘として。

Yuhiと父のために、たくさんの思い出や病気のことなど、父のことを書き残しておこうと思う。

いつか子供達がこれを読んで、命の大切さや、家族の素晴らしさを感じてもらえるかもしれない。

父と過ごした日々、父が愛した家族、Yuhiとじっちの日々、たくさんの思い出・・・・
最後の最後まで誰かを愛して、思っていた父。

辛いことだっていっぱいあったけど、いつも愛情にあふれた父とのキラキラに
輝く美しい日々。





・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

亡くなった日の夜、パパの実家にいたYuhiが夕方になって、じっちの家に行く!と
泣き出してどうしようもないって、パパが連れてきてくれた。

実家に来たYuhiは、布団に横たわるじっちを見て、
“ねえ、じっち起きないの??お団子(供え物)食べなかったの??”と不思議そうな顔をした。

“じっちね、お星さまになったんだよ。教えたでしょ・・・”と私が言うと、

しばらく黙ったあと、小さな声でYuhiがささやいた。

“じっちに会いたいね・・・・”



ママもとっても会いたい。

涙が止まらなくて、声にならなかった。

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すい臓がん闘病記①

2008年、4月。

去年は年明けからいろんなことがあった。
1月には母が高血糖で倒れて、緊急入院。
2月は私が次男を出産。

実家に里帰りして、2人の息子の育児にてんてこ舞い。

それでも、いつも私にとっての強い味方!の父がゆうひの面倒を見てくれてすごく助かった。

でも・・・この頃から、私が気になっていたことが一つ。

母の入院中から、父が少しずつ痩せていたこと。



父はもともとスポーツマン。

若い頃はバドミントンで活躍?したらしいし、野球もしていた。
それから少年野球団の監督もだいぶ長い年月していたし、とにかく活発で、じっとしていられないタイプ。

人の世話も進んでするほうで、退職後も町内会の世話役やら、民生委員、さらには行きつけの居酒屋のママが主催する踊りの会の会長などなど・・・
色んな仕事を引き受けていた。
本人も仕切るのが好きだし、周りの人も父に頼ってきてくれた。

お酒も大好きで、定年後も何につけ飲み会に呼ばれては出かけていたし、
自宅でも毎晩晩酌は欠かさなかった。
(歳をとってからはさすがに酒量はへって、ビール1本に酒1合程度ですぐに眠くなってたっけ)

食欲も旺盛で、ほんとに70歳??って思うほど、1日3食しっかり食べていた。

それから、弱い母に代わって家事全般も父がこなしていた。

孫の面倒は見るし、仕事も精力的にするし、お酒も好きで、旅行も好きで・・・
まさにスーパーおじいちゃん!

昔から父のことを知る友人には
『あんたのお父さん、すっごい若いよね!もしかしてさー 愛人でもいるんじゃない?!』って思わせるほど、いい意味で『おじいちゃんらしさ』はないような人だった。

と、父の人となりはいいとして。

痩せてきた父が心配で、春先から受診を勧めていた。

そして、かかりつけの病院に行って、胃カメラの検査をするもとくに異常なしとのことでかえされる。

それでも、何かおかしい!と確信していた私は再度受診をすすめて、父も大きい病院に行こうか・・・と3ヶ月後に定期検査(前立腺ガンの)がある予定の病院に電話して相談する。
“もう一度かかりつけ医に行ってください”と言われ、再度受診。

今度は腹部エコーの検査。

これで、異常ありの診断がだされ、即総合病院への紹介が決まった。

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すい臓がん闘病記②

2008年4月15日。

赤十字病院内科受診。あきとを義母に預けて、父に付き添う。

Drに問診と触診をされる。

血液検査・心電図・レントゲン。
後日、CTの予約をとる。

この日、腹部エコーでは
“キレイに見えてますけどね・・・”と言われ、少し気分が明るくなった。

4月23日。

CTなど一連の検査を終えて、結果を聞く日。この日もあきとを預けて付き添う。

そして、この日がガン告知の日でした。

検査結果。

すい臓頭部に1.7cmの腫瘍あり。
ガンの可能性あり。
初期なので、手術が適用になる。

この他、すい臓がんは予後が非常に悪いこと、進行が早いこと・・・・も説明される。


まるで  “風邪ですね・・・”  とでも言うように淡々と告知をするDr。

私はすぐ目の前に座り、じっと話を聞いている父の横顔をただ見つめていた。


手術を希望するかどうか。
セカンドオピニオンはするか。

相談してきてくだいと言われ、病院を出た。

“悪いな・・・・ごめんな・・・”とお父さんがつぶやいた。

“まだ初期でしょ!大丈夫だよ。大丈夫!”と励ますしかなかった。


広島に住む長男にも連絡。

ゴールデンウィークにこちらに来ることになった。

5月2日。

兄と私で再度病院へ行き、Drに詳しく話を聞いた。
私が悩んでいたことは

・セカンドオピニオンはどうするか。
・手術はしたほうがよいか。した場合はその後の生活は?

それから、父のガンの詳しい進行度などだった。

この日のDrは最初に説明を受けたDrと別な方で、とても丁寧に時間をかけて話を聞いてくれ、説明してくれた。

父のガンの進行度は今のところ1期(4期に分けられる)
2期以降になると、手術が出来ない場合もあり、3期4期は不可能で、抗がん剤での治療しか選択はなくなるとのこと。

・術後は当然ながら体力がかなり低下する。
・合併症もあるかもしれないこと(腹膜炎・縫合不全など)
・いずれにしてもかなり個人差があること。
・手術は消火器系の手術の中でも最も難しいもので、大手術になる。
 (すい臓の位置が背のほうで隠れているため)

セカンドオピニオンについて。

・大学病院だとすれば、検査などもたいへん時間がかかるうえ、通院でも疲労がたまる。
 (これは兄の時で経験済みで承知していた)
・当院には県内でも珍しいほど外科医が多い。
・某病院にすい臓がんの手術が上手なDrがいると聞いたことがあるが、それも実際にどうかは分からない。
・私なら(Dr)大学病院ではOpeはしない。

だいたい以上のことを話してくれた。

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すい臓がん闘病記③

お父さんと兄と私で相談した結果、

・手術は赤十字病院でうける
・セカンドオピニオンはし希望しない

まずはこの二つを決めた。

そして、早速手術に向けて、さらに詳しく検査をすすめていくことになった。

5月13日。

MRI検査の結果によって、すい臓尾部にも影があり、入院してさらに詳しく検査することになった。

すい臓頭部だけでなく、尾部にもある場合は術式も大きく変わるため、入念な検査が必要とのこと。

5月16日、検査目的のため入院。(この日は亡くなった兄の誕生日)

   19日、造影カテーテル検査。
   22日、一旦退院。
   26日、厚生病院にてPET検査。
       ※最新の検査方法で、薬を体内に流して、レントゲンをとる。
        腫瘍がある場合、その部分だけが光る。
        ガン患者が増えてきている近年、この検査をうける若い人も増えている。               
   27日、再度MRI造影検査。(薬を変えて)
       ※影を見つけたときの薬と変えてみて、どのような結果になるか確かめる。

   29日、詳しい検査の結果、尾部に腫瘍は認められず、当初の予定通り
       すい臓頭部の摘出手術を行うことに決まる。

とにかく検査三昧の日々だった。

私は出来るだけ父の診察に付き添うようにした。
母も病院には行ったけど、Drjからの話に気を落とすのを父が心配して・・・
そして、父は私にはいつも側にいて欲しかったみたい。



生まれたばかりのAkiもまだ首もすわらないこの頃。
さらには、母乳育児がなかなか軌道に乗らずに、度重なる乳腺炎で高熱を繰り返したりもして・・・・
当然、まだまとまった時間は寝ないAkiの育児・・・
幼稚園に入園したてのYuhiはまだまだ慣れないし、疲れからか風邪もなかなか治らなかったり・・・

育児と仕事、父の診察や検査の付き添い。

どれも手を抜けないことに日々追われて、ただ必死に生活していた。



父は、告知をうけた後もいつも気丈だった。


ガンが幸いにも初期で発見されたこと。
手術をすれば、せめて後5年くらいは生きられるかもしれないこと。

まだまだ希望があったから、ガンと分かってもお父さんは気丈だった。

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すい臓がん闘病記④

そして、手術のための入院の日程が決まる。

6月5日入院。

手術は6月9日(月)に決まった。

手術当日、Yuhiの送り出しをパパに頼み、Akiは義母に預けて病院へ向かった。

手術開始は午前9時。
終了予定は午後3時から4時。

手術室まで、私と兄と母で送った。

午後3時少し前、手術が終わった。

私と兄がDrとの面談室に行き、術後の説明をうけた。

Drは“全て予定通りに終わりました”と言って、父の体内から摘出したすい臓頭部と胆のうを見せてくれた。

すい臓頭部に白いカタマリが見えた。
ガンの大きさは2.5cm。

父が病室に戻るまでもう少し時間がかかるので、病棟で待機するように言われた。

気になってしようがない私は、手術専用のエレベーターの側で父があがってくるのを待った。

戻ってきた父は酸素マスクをして、たくさんの管がつながれていた。

でも、目はしっかり開いていた。

Nsに“話しかけてください。もう話せますよ”と言われた。

泣かないように、出来るだけ明るい声で
“お父さん。終わったよ!成功だって!良かったね”と。

父はしっかりと“うん”と答えてから

“胃は??胃は残ったか??”と聞いてきた。

術後の経過には、胃が残っているかいないかで、回復に大きな影響があることを心配していたので、胃が切られていないかどうか、一番気になっていた。

それから、腫瘍の大きさや何号室に入ったか、今の時間は??など、しっかりしている父にただただ安心した。

Nsによると、痛みはしばらくでしょう。ただし、明日から体は動かしていきます(回復を早めるのによい)とのこと。

この夜、付き添いはとくに必要なしと言われたけど、広島から帰ってきていた兄が一晩泊まることになった。

この夜、父は発熱したものの(術後によくある)何かあれば自分でNsコールを押して、色々と用を頼んだりして、とてもしっかりしていたそうだ。

翌日朝には酸素マスクもはずされた。

私が病室に行き、
“どう??ひどい??”と聞くと“うん・・・”とうなずく。

当然ながら痛みがひどいらしい。
それでも、顔色はとてもよくて、ベッドの上げ下げも(リモコンで)せっせと自分でしている。
体を動かすように!とDrやNsからしつこく言われているので、懸命に体の向きを変えたりしている。

痰も痛くても必ず出すように言われている(肺炎を防ぐため)ので、これも顔を歪めながら必死に出している。

午後にはベッドから足を下ろしてすわるところまでがんばった。

Nsに立ってみる?と聞かれたけど、それはさすがに嫌がって首をふった。

この日、Yuhiが幼稚園で発熱。

翌日は小児科受診で父の見舞いに行けない。

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すい臓がん闘病記⑤

6月11日、手術から2日後。

Yuhi、風邪のため見舞いに行けない。

父の様子が気になるなぁ・・・とソワソワするも、どうしようもない。

午前10時、父の携帯から電話が来る。

えッ!!と驚く。
あんなに痛がっていた父から電話だなんて。

私“どうなの??”
父“変わりはないな・・・でも、立ったよ・・・”

立ったんだ!それに電話もかけられる!!

少しずつ元通りの父に戻ってきたようで、すごく嬉しくなった。

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術後、痛みはひどいものの、Dr曰く・・・順調な回復の父。
手術直後は、無理にでも体を動かそうとするNsの悪口ばかり言っていた父も、最後には
“ほんとに看護婦には感謝だな・・・”としみじみと言っていた。

~退院までの経過~

6月15日…背中から入っていたチューブ抜去(痛み止め)
        ※兄広島へ帰る。
   16日…尿の管、鼻からの管もとれる。バリウム注入してレントゲン撮影。
   17日…食事開始。

この時点でも、まだ体には3本の管が残っている。

食事を開始しても、当然、以前のように食べられず。
痛みもあったり・・・で、注射や内服で痛みを調整しながらの入院生活。

もともと食欲がとてもあって、食べるのが大好きな父だったから、思うように食べられないのはどんなに辛かっただろう。
“食欲が戻ればなぁ・・・”といつもこぼしていた。

6月23日…お腹の管1本抜去。
   26日…お腹の管1本抜去。残り1本。

7月に入り、少しずつ食欲出てくる。
おにぎりやそうめんを好んで食べる。

7月3日…最後に残っていた管をとる。そして、退院の許可がでた。


 

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すい臓がん闘病記⑥

退院日は7月7日に決まった。

食事に関してまだまだ不安が残るものの、退院が決まったことはやっぱり嬉しかった。

入院したときに比べて、すっかり痩せてしまった父。
退院時には、お世話になったNsに何度もお礼を言っていた。

“最初はねー(看護士さんが)ほんとに鬼に見えたんだけど・・・
今は天使に見えるよー(笑)ありがとうね!”


父は、退院したものの、やはり食欲がなく、体調も優れず。

2日後には発熱し、11日に再入院してしまった。

診断結果は『胆管炎』

術後の合併症としては珍しくないそうだ。

絶食にして、抗生剤の点滴をすることになる。

そして、7月16日、胆管炎も治り、晴れて退院。

“前回の退院時よりも調子がいいし、食欲もある”
“口内の不快感もない(これは最後までずっと気にしていた)”
“甘いものが食べたい!”

元気な父の姿が嬉しくて・・・
ガンもとったし、後は体力を戻していこう!!がんばれお父さん!と改めて思った。

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ガン告知をうけてから・・・・

ガンを克服しよう、という強い気持ちと、余命はごくわずかかもしれない・・・という不安な気持ちと、父はその間をいつもいったりきたりしていたと思う。
でも、最後には“孫のために死ねない・・・”にたどりついていた。

兄は、ガンと告知されてからたったの3ヶ月で逝ってしまった。
つい2年前のことだ。

ガンの怖さを見てきた父、そして私も、父に告知されたときから、常に“最悪”の場合を考えていた。


ガン告知のしばらく後、自分に言い聞かせるように、涙をこらえて父は言っていた。

“もう、なるようにしかならないんだ・・・・”
“でも、お父さんは幸せだ・・・子供たちに、すごく恵まれたし・・・思い残すことはないんだ”

そして、またこう言った。

“Yuhiがな・・・Yuhiの成長が楽しみだったのにな・・・
ランドセルを背負う姿は見たかったな”


術後は、Drにも言われていたけど、術前のように体力は戻らなかった。
それでも、普段の生活は出来るくらいに回復した父。

そして、病気になる前からYuhiと約束していた“トーマスランド旅行”に、どうしても今のうちに連れて行きたい・・・と、父が言い出して、2008年9月、山梨へ2泊3日の旅行に出かけた。(そのときのことはブログに書きました)

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すい臓がん闘病記⑦

【ガン再発・肝臓に転移】

手術後、私と父はガンが転移してしまうのではないか・・・と、とても気にしていた。

とにかく10月の定期検査をクリアすれば、もしかしたら奇跡がおきるかもしれないと思っていた。


そして。

10月10日、CT検査。

17日、検査結果を聞きに父と病院へ。

診察室の前で待っているとき・・・
このまま時間が止まればいいのに、呼ばれなきゃいいのに・・と思うほど、Drの話を聞くのが怖かった。

お願いだから、転移していないでほしい。体の中にガンがなければいい。
“お願い、お願い、お願い・・・”

何度も祈った。

診察室に入ると、父がイスに座るか座らないうちにDrが話し始めた。

“うーん・・・ちょっと悪いんですよ・・・・”

すぐにこの間とったCT画像を目の前の貼り出された。

肝臓に黒い点(腫瘍)が散らばるように数個、いや数十個みえた。

・・・・ がく然とした。

なんで??どうして、こんなに??

Drが父に説明をしているんだけど、私も必死に聞こうとしているんだけど・・・

気づいたら涙があふれてとまらなくなっていた。

“●●、泣くな・・・お父さんは大丈夫だ・・・”

父は毅然として、今後の抗がん剤治療の話を聞いていた。

Nsが泣いている私にティッシュを出してくれたような(よく覚えてないのだけど)



この日のDrからの説明。

・手術はもう不可能であること、同時に根治も不可能。
・ガンの進行を遅らせるために、抗がん剤点滴での治療が有効。
 ※ただし、抗がん剤の効き目は個人差がかなりあるし、副作用もあること。


そして、父は自分からDrに余命についても聞いた。

父 “先生・・・これも人によって違うんでしょうが、後どれくらいですかね?”

Dr “そればっかりは、私でも何とも言えないんです・・・
    が、これまでの経験から。
    最悪の場合は3ヶ月、あとは年単位という方もいます。”

悪い夢を見ているような・・・ただ、そう思うだけだった。


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つい2年前のこと。


父と兄と姉と私で、大学病院で兄の病状を聞いた。
Drの顔も表情もしっかりと覚えてる。
“1ヶ月もつかどうか分からない・・・”

あのときも、何が何だか分からなくて、涙がただ止まらなくて。

涙で震えていた父が強い口調で、私や姉を励ましていた。
父もどんなに辛かっただろう。

兄の手術の日。
始発の電車で病院に向かった父が私の携帯電話にかけてきた
そして、必死に自分を奮い立たせようと
“大丈夫だよな!●●!絶対、必ず成功するから!!!大丈夫だよな!”

我が子を失うかもしれない親がどれほど辛いのか、痛いほど悲しいほど伝わってきて、私も苦しくてしようがなかった。

それから、もう余命が残り少ない兄の病室に父が行ったときのことを父がよく話してくれた。

“あいつ、オラが行ったら泣きそうな顔になって・・・
小さい子供がベソをかくみたいに、顔をぐしゃぐしゃにして・・・”

“お父さん、おまえのことは絶対、死なせない!って言ったんだ。”


兄が亡くなったとき、私の携帯に電話をくれたのも父だった。

電話口で、ただ私の名前を呼ぶのが精一杯だった父。

兄の病室に飛び込むと、兄の足元に座り込んでいた父が目にはいった。

私をみて“ダメだった・・・”と声を絞り出して言った父。




つい2年前の出来事。

あの父が逝くなんて、嘘のようだ。

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すい臓がん闘病記⑧すい臓ガンについて。

10月24日(金)

肝臓への転移が分かった翌週の金曜日。
抗がん剤ジェムザールでの点滴治療が開始した。

初めてのことなので、この日も父に付き添った。
人によっては、点滴を流すとピリピリする感じがあると言われたが、特に問題なく
点滴は終了した。

薬剤師さんからも詳しく説明をうけた。

ジェムザールは、それほど重い副作用はないらしい。
ただ、これも個人差がかなりあるとのこと。

食欲不振や口内の不快感、皮膚の掻痒感、倦怠感、発熱・・・・
このような副作用が全て出る人もいれば、全くない人もいる。

出来るだけ副作用がないといいなぁ・・・と、父と話した。


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父の病気、すい臓ガンについて。

ここ数年で、日本人の罹患者が増えているこのガン。
喫煙や、食事の欧米化などが原因とされているとか・・・

ガンの発生については、色んな話があって、ストレスが原因だとも言われるし、遺伝的要素が大きいとも・・・
喫煙が悪いと言われても、ヘビースモーカーだからといって必ずガンになるわけでもないし・・・

父がすい臓がんになり、ネットや本ですい臓がんについて調べたところ、ガンの中でもすい臓に出来るガンは最も悪くて、希望がわくような話はいくら探しても出てこないのが悲しかった。

中には、すい臓がんの手術をうけてから5年生きています!という人が一人いたけど、それ以外は本当に厳しい現実ばっかり・・・
ほとんどのすい臓ガン患者は、発見から1年以内に亡くなっている。

なぜ、すい臓ガンは最悪かというと。

すい臓の位置は、背中側で、まず腫瘍を発見するのが難しい。
さらには、初期症状も少ないため、少し胃の調子が変だ・・・と思って病院に行っても、せいぜい胃カメラを飲んで、“特に異常なし・・・”で終わってしまい、そのまま放置して、体重が減ってきた・背中が痛むなどの症状が出たころには、もう末期状態になっていた。というのがほとんどらしい。
また、すい臓という臓器は重要な血管が多く流れているし、他の臓器とは違い“はだか”の状態(膜で覆われていない)なので、多臓器にもすぐ転移しやすい。

なので、父のように初期で見つかったのは稀だし、手術可能というだけで、かなりの望みがあった。

抗がん剤についても、『ジェムザール』という薬はここ最近日本で認可された、すい臓がんに対してとても有効だと認められた薬だった。
※抗がん剤は国によって認可されているもの、いないものがあって、日本で認可されている薬は外国に比べても少ないそうです。
数年前までは、すい臓がんに効く抗がん剤はなく、手術も不可能な患者(すい臓がん患者のほとんど)には有効な抗がん剤治療もなかった。

とにかく、すい臓ガンは最近になって患者が急増してきた上に、大変見つかりにくいため、手術例も他臓器のガンに比べても少なく、手術にしろ投薬するのしても、まだまだ検査段階だそうだ。

すい臓ガンについて調べれば調べるほど、なんて厄介なところにガンが出来てしまったんだろう・・・・とため息しか出なかった。


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すい臓がん闘病記⑨

週に1回の抗がん剤点滴が開始した。

点滴の日は、まず初めに採血をして、その後Drの診察がある。
その結果で点滴をしてよいかどうかを決める。

10月24日に抗がん剤治療をスタートしてから、採血の結果があまりよくなかったことも数回あって、結局、父が抗がん剤点滴をしたのは4回ほどだったと思う。

ガンが進行しているせいなのか、抗がん剤のせいなのか・・・
見た目にもすっかり痩せてしまった父。
自分でも、“骨と皮だけになったな”・・・とがっかりしているときもあった。

体調は日によって、いいときと悪いときがあって、特にお腹の調子を気にしていた。
それから、術後からずっと訴えていた口内の不快感もよくならず、食事を美味しく食べることが出来なくなって悲しそうだった。
それでも、もともと甘いものが大好物の父は団子やおはぎを食べたいというので、時々かっていった。

季節が秋になり涼しくなってくると、寒がりの父はますます寒がるようになった。
術後、体力が戻らず以前のように活発に動くことも出来ないためにいつも寒がっていた。

ガン細胞は熱に弱い・・・
体温が高いのはとてもいいのだけど、体を冷やすのは絶対によくないし、冷えはがガン細胞が増える原因にもなる。

出来るだけ体を冷やさないように・・・と電器アンカと足湯用のバケツを買っていった。

そんな中・・・
11月に入り、家族で岩手花巻へ温泉旅行に出かけた。

これが、父との最後の旅行になった。

広島の兄もきたし、うちのパパも初めて一緒に行った、家族旅行。

私たちと・・・よりも、Yuhiと一緒に旅行にいけることをとても喜んだ父。

そのせいか、顔色もよくて食欲もあり、宿では夜食にソバも食べていた。

じっちのことが大好きなYuhiは、実家に泊まったり、どこかに泊まりに行くと必ず夜はじっちと一緒に寝た。
このときも、父が疲れてしまうから・・・と、Yuhiを私達の部屋に連れてこようとしても、
頑としてきかず、父の布団で寝てしまったYuhi。

2月に里帰りで実家に泊まっていた1ヶ月間も、山梨に旅行に行ったときも、夜は必ずじっちと一緒に寝たYuhi。

里帰りを終えた次の日に父が、
『ゆうべはYuhiがいなくて、なかなか眠れなかった・・・』と寂しそうに言ってたっけ。

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季節は秋から冬へ。

寒いのがとにかく苦手な父。
布団にいる時間が多くなり、病状の改善はみられないまま・・・・
それでも、
『なるようにしかならないけど、でもお父さんはちゃんと頑張るから!諦めないから!』と
言っていたとおり、少しずつでも食事をとり、抗がん剤点滴も積極的にうけていた。

そして、寒さがましてくるにつれて、子供たちも風邪を繰り返しひくようになって、Akiはお兄ちゃんから風邪をうつされるとなかなか治らずに、ずっと病院通いが続いた。

毎朝のように父から電話がきて子供たちの様子を聞かれて
『じゃあ、今日も来れないな・・・・』と寂しそうに言われるのが私もつらかった。

いつも父のことを考えていても、体は一つしかないから・・・・
実家に行って父に会いたくても、風邪の子供たちを放っておくわけにもいかず。
気持ちばかり焦って、イライラすることも多い日々だった。

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すい臓がん闘病記⑩年明けて。

2009年、年が明けた。

昨年の年末に病院に行ったときに
“年を越せればいいですから・・・”と言って

“そんなことは言わずに、平均余命はあくまでも統計上のもので、人によって様々なんですから・・・”とDrに励まされていた父。

年末、そして正月・・・・
我が家ではAkiが気管支炎や胃腸炎にかかり、相変わらず私は子供の看病に明け暮れていた。
大晦日にいたっては、Akiがなかなか胃腸炎が改善しなかったので当番医につれていき点滴をしてもらった。
下痢と嘔吐が続いて、正月どころではなかった。

けど、今年の正月は父と温泉に行く約束をしていて、宿を予約していた。

私が嫁いだころから、正月になると両親と広島の兄とで温泉に行くのが恒例になっていた。
私はいちいち高いお金を出してどこかに行くんだったら、家でゆっくりしたいから・・・と毎年、父の誘いは断っていた。
でも、今回はYuhiも連れ行きたい、と父からお願いされて、みんなで行くことになっていた。
ところが、Akiが年末に胃腸炎になってしまって、やむなく私たち家族は行かないことにした。
無理をすれば行けたのかもしれないけど、まだ小さいAkiに無理をさせるわけにもいかず、さらには感染性胃腸炎だし、万が一父にうつったらそれこそ命とりになる。

きっと、父はこれが最後になる・・・・と思ってすごく楽しみにしていただろう。
Yuhiも楽しみにしていたのに・・・
今でも、あぁ行きたかったな、楽しみにしていただろうな・・・と少し辛くなる。
こればかりは仕方ないのだけど。

私たちがいけなくなって、運転手がいなくなってしまいどうしようか・・・・と悩んだあげく
何と、父は自分で車を運転して兄たちを乗せて(兄は免許がない)温泉宿まで行った。
すごい。今思えば、すごいことだ。

運転する力があるんだ!

今となれば、そのことがあって、私は父の病状についても楽観視していたのかもしれない。

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まだまだ厳しい寒さが続く1月。

早く子供たちが元気になって、季節も暖かくなって欲しいと願う日々だった。

暖かくなれば、父も体を動かしやすくなるし、そうすれば気分もだいぶ違うだろう。
子供たちも風邪が治れば、すぐに父のもとへ毎日でも連れていける!

そして、また温泉に一緒に行かなくちゃ。

早く暖かくなればいい。早く・・・

でも、ガンは進行していた。
父はいつも気丈だったけど、体はもう限界だったんだろう。



父が入院したのは、1月16日。

抗がん剤治療を再スタートするために、診察の予約が入っていた日だった。

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すい臓がん闘病記⑪入院。

1月16日。

父は抗がん剤治療のための診察、それから母は内科の定期検査でMRIを撮る日だった。

この日も父から付き添いを頼まれていたので、Yuhiを幼稚園に送り出してから病院に向かった。
母のMRI撮影予約は10時だから、それまでには行こうと車を運転していると、父から
いったいいつになったら来るんだ!?と催促の電話が入った。

父は体調が悪く、車イスでの移動。
それなのに、一人では何もできない母のMRI撮影はあるし・・・自分の体は思い通りにならないしで、父もイライラしていたんだろう。
いつも一番頼りにされていた私は、出来るだけ父の希望に添えるように・・・と思っても、無理なこともあったりで・・・

これもあれも・・・と要求してくる父に私までイライラしてしまうこともあった。

この日の病院は正月明けということもあってか、ものすごい混み具合だった。
普段なら予約時間の遅くても30分後には呼ばれるはずが、1時間たっても呼ばれない。

お昼近くになり、さすがに疲れてしまった父が
“横になりたいから・・・看護婦さんに言ってくれ。”と言った。
座っているだけでもこのときの父にはかなり負担だったんだろう。

処置室のベッドに横になった父。
すぐに担当医が来てくれた。

父の希望は、(体が)ちょっとしんどいから少しの間でもいいから入院させてほしい・・だった。

母の診察はどうなったか・・と、私はいったん父の側を離れた。
すると、看護師が来て
『Drがご家族の方にお話があるそうです』と言われた。

診察室に入った私にDrは

・入院するのは了解しました。
・だいぶひどそうです、今回入院したら、もしかして退院は出来ないかもしれません。

以上のことを告げた。

『分かっていたことですから・・・
先生、よろしくお願いします。』と言って診察室を出た。

分かってはいたんだ。
父のガンが発覚してから、覚悟はしていた。

だけど、いつも心の中で、『でも、まだ大丈夫だよね・・・』と言い聞かせていた。

父のところに戻り入院できるって、と伝えた。

このとき、父は私に言った。

『お父さんな・・・もう分かるんだ(最期が近いこと)
自分の体だからな、
ごめんな、でもお父さんは大丈夫だから、悲しまないでほしい。悔いはないから・・・
○○(私の名)は大丈夫だな、強いから・・・』

そしてそういった後に、
『Yuhiのなー せめて小学校に上がる頃までは生きたかったな・・・』ち力なくつぶやいた。

まさかあと数週間で父が逝ってしまうなんて思いもしない私は、このとき父に

『お父さん、私は大丈夫。子供がいるから・・・・今は何よりも子供のことが一番大事だから』と言った。

本当なら、父への感謝の気持ちとか、励ましとか・・・
言いたかったことはいっぱいあったのに、少し突き放すように、そんなことを言ってしまった。

年が明けて間もなくのこの日、16日。

父が入院した。

何かが動き出すのは決まって16日。

2年前、兄の胃がんが発覚したのも、1月16日だった。




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すい臓がん闘病記⑫希望を抱いて。

入院した父にさっそく点滴が開始された。
(抗がん治療は,衰弱が激しいので中止)

翌日の土曜日はまだ調子が悪く、気が弱いことを言っていた父だが、
入院3日目の日曜日にはずいぶん回復してきた。

食事も美味しい・・・と言って、機嫌もとてもよかった。

・病院食のメニューをメモにとり(私がとった)、自宅に戻ったらこれを参考にお母さんに用意してもらおう
・食パンが柔らかくてすごく美味しいといって、これも退院したら買ってきて食べよう

と、退院する意欲満々だった。

ほんの2日で、気分も良くなり、食事も美味しくとれるようになったので、ご機嫌の父。
日曜日の日中、病室にいる私と母に冗談を言っては笑わせて、夕方になると
『もうお前達は帰れ!若くて優しい看護婦さんに来てもらったほうがずっといい(笑)』
と言って私たちを帰した。

手術以降、体が思うようにならず、イライラすることも多く、いつもしかめっ面をしていた父のニコニコと穏やかな顔をこのとき久しぶりに見た。

そういえば、ここ何ヶ月も父の笑った顔を見なかったな・・・
父の笑顔がこんなに嬉しいなんて。


このまま、点滴を続けて体調が少しでも戻れば、もしかしたらもう1度自宅に戻れるかもしれない。
いや、きっと戻れる!

お父さんは、体力があるもん。
気力だってあるし、大丈夫!

まだ大丈夫・・・・・

本当に、そう思っていた。

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すい臓がん闘病記⑬病状悪化。

入院後、ほんの数日間で少しだけど回復してきた。
機嫌がよい父。食欲も出てきた父。
すごく嬉しかったし、ほっとした。

入院の時、Drに言われたことも、気になっていたけど
人の命だもの、いくらDrにだって分からない。

日曜日の父の元気な姿を見てほっとした私は、翌日の月曜日は父に頼まれた用事だけを済ませに病室へ行き、ほんの数分で帰ってきた。
翌日の火曜日は、年末年始の子供たちの風邪や胃腸炎の看病の疲れが出てきた私は、父の病院に行かず自宅で少し休んだ。

この日の朝、父が電話をよこした。
日曜日の元気な声とはうってかわって、暗く力のない声で。。。
『体調悪いんだ・・・今日は来れないのか??』
『うん・・・Akiもまだ風邪気味だし・・今日は行けない』
寂しそうに電話を切る父。

母は、バスに乗り毎日病室に行っているし、大丈夫だよね。
そう思った。

私は、まさか父が後1週間もしないうちに逝ってしまうなんて夢にも思っていなかった。
今になっても、どうしてこのときほんの少しでも行ってあげなかったんだろう・・・と、辛くなる。
父はただ、私に会いたかったんだ。
愛する我が子にただ会いたかったのに。

ごめんね、お父さん。


そして、翌日。

午前中、父のところに行った。
思いがけない光景が目に飛び込んだ。

ベッドに横たわる父は、意識朦朧と、口をあけて眠り込んでいた。
ついおとといまでとはすっかり違う姿に驚いた。
すでに病室に来ていた母に聞いても
『なんだかね・・・ずっと、こうして寝てるの・・・・』としか言わない。

おかしい、どうしたの??
間もなくNsがきたから、何があったか聞いてみると
『朝、腹痛を訴えて・・痛み止めの薬を飲んだからだと思います。』

ピンときた。
きっと、痛み止めの麻薬が開始されたんだ。
兄の最期も見てきたから、父の様子をみてすぐに分かった。

『お父さん!』と声をかけると、何とか目を開けるものの、反応が鈍い。

手術後、すっかり痩せた父がいっそう小さく見えた。

私は午後に仕事があったので、いったん病院を出てから、夜にまた病院に戻り、担当Dr
に話を聞くことにした。

・Drの話

『今朝、腹痛があったので、麻薬系の軽い薬を使いましたが、少し効きすぎたようなので、次は別の種類の薬を使います。
 
状態は悪いです。
足がかなりむくんでますが、おそらく悪液質によるものでしょう。』

兄のとき、肺に水がたまりとても苦しそうにしていたことを思い出し、
そういうことはないのか??たずねると

『末期ガンの患者さんの状態としては、とてもよい状態です。
(酸素も必要ないし、腹水や肺に水が溜まることもないため)』

『自宅で見届けたいというご希望があれば、それも可能です。
病院にいても、今後は特にすることはないんです。希望であれば言ってください』

余命はどれくらいですか??

『こればかりは何とも・・・
ただ、月単位ではないです。今すぐもありえます』



もう、覚悟をするしかなかった。


ただ、とにかく苦しまず穏やかに逝かせてあげたい。

娘の私に出来ることは、それを祈るだけしかなかった。

静かに、穏やかに・・・苦しまないで。

お父さん、大丈夫だよ。


この後、父の病状悪化を知らない姉と子供達が夜に病室にやってきた。
思わず、『待って・・・』と目配せをして病室に入るのを止めようとしたけど遅かった。
変わってしまった父の姿を見たら、姪と甥はショックだろうと思ったから・・・

孫が来たことに気づいた父は、少し意識がはっきりとして、
手を差し出して握手を求めた。

私がふざけて今度4年生になる甥に
『あれ?今度1年生だっけ??笑』と言うと
父が
『違う・・●●は今度4年生だ!』と言い返してきた。

それから、今中学1年生の姪の学校の試験の話題をしていると
手でバッテンをして
『やめろ・・・』という。

父は以前から、勉強をがんばっている姪に対して
私たちが何かと期待をして、将来のことを聞いたり、学校のテストのことを
聞いたりするのを嫌がった。

みんなの期待する気持ちがプレッシャーになっては、姪が可哀想だ・・・・と、父は
本当にいつも子供側の立場になって考えてくれた。

孫達が帰るときには、手をVサインにして送りだした父。

効きすぎた薬がきれてきて、明日になればまた前のように
父と話せるかな・・・

覚悟をしなくちゃ・・と思っても、やっぱり最期まで、『もしかしたらまた元気に・・・』と思ってしまう。

叶わないことを知っていても、もしかしたら・・・と、父の闘病中、何度思っただろう。

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すい臓がん闘病記⑭覚悟と涙。

麻薬もきれたからか、ほんの少し意識を戻した父。

入院したときは、自分で体をおこしトイレにも行っていた父が、もうベッド上で寝返りを
うつことも、自力で飲み物を飲むことも出来なくなっていた。
声も弱くなって、精一杯何かを話すのだけどなかなか聞き取れなくなってしまった。

それでも、私が行くとすぐに何かを訴えてくるから、私は父の口元に耳を近づけて
『うん、うん・・・』と聞いていた。


麻薬を使った直後、急激に病状が悪化した父。

このとき、父は覚悟を決めたのだろう。

もう、退院のことも言わなくなり、ただ穏やかにそのときを待っているようだった。

私に数回こう訴えた。

『とにかく、もしもの時がきても 静かに逝かせてほしい・・・・
なにも(延命治療)しないで、逝かせてほしい・・・』

『なんで、こんなに苦しませるんだ。
早く逝かせてくれ・・・』

亡くなる日の2日前、担当の看護師に言われた。

『本人は意識がはっきりしてるので、とても辛いと思う。
体を動かしたがるのも、身の置き所がないくらいとても痛みや倦怠感が
ひどいのだと思う』

父は、何度も足を動かしたい、腰が痛い・・・と頻繁に言っていた。


ただし、激しい痛みを訴えるわけでもなく、肺や腹に水がたまるでもなかったため
医療処置は最低限のものだった。

父らしいといえばそうなのだけど、ギリギリまで意識が鮮明だったので、
これも本人にとっては辛かったのだと思う。

看護師さん曰く、
『末期ガンの場合、最期が近づいたら、看ている家族は辛くても、薬で意識がないほうが本人は楽なんです。』

父はこんなことも言った。
『俺の心臓は強いんだな。。。(だからなかなか逝かないんだ)』



つい1週間前までは、退院したらこうしよう、ああしよう・・と計画していた父が
ほんの数日で、死を目の前にしている。

父はどんな風に死をうけいれたんだろう。
最期が近いことに気づいたとき、何を思ったんだろう。

心の中で、どれほどの葛藤があったんだろう。
どんなことが父の脳裏を横切ったんだろう。

父は最後に何を言いたかったんだろう。
何を見て、何をしたかったんだろう。

亡くなる2日前、意識が薄れていくなかでも、まだ父ははっきりと
生きた目をしていた。

今思えば、このころに父は死を覚悟したんだろう。





薄れていく意識の中、父の目から一筋の涙がこぼれた。

もう、『生きる』ことに決別した父の涙・・・

たった一言では言い表せない。

愛や思い出や悔しさや悲しさや・・色んな思いが涙になった。



父は生き抜いたんだ。

生きることを最後まで諦めなかった。

悲しみだけの涙ではないと、今になって心からそう思える。


私達を精一杯愛した父の、とても美しい涙だった。

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すい臓がん闘病記⑮最後の日。

病室は満床で、父は末期だというのに4人部屋にいた。

個室を希望していたのだけど、若い看護師にとりあっても
“すみません・・・いっぱいなんです・・・”と言われるだけ。

あげく、
“もし、急変した場合は、ナースステーションの隣の処置室で(最期をむかえる)”
なんて言われた。

満床なのは仕方ない。
でも、父の命が軽く扱われるようで、とても腑に落ちなかった。(もちろん、そんなことはないのだけど)


そして、亡くなる日の前日。

父の担当になった年配の看護師さんが、何とか個室に移してあげたい・・・
と、個室に入っている患者さん数名に取り合ってくれて、父は個室に入れることになった。

今でも、あの看護師さんの暖かい心使いを忘れられない。

“●●さん、良かった。このお部屋、とっても明るいし、眺めもいいし、本当に
移れてよかった。”と、家族のように一緒に喜んでくれた。

医療従事者、特に医師と看護師からすれば、患者の死はごく日常的に目の当たりにするし、個室か大部屋か・・・なんて気にもならないのかもしれない。

だけど、家族からすれば。

愛する家族との最期の別れが、知らない人のベッドの隣だなんて、やっぱり嫌だ。



命が消えるときも、生まれてくるときも、

それはとても、神聖なものだから。




個室に移った翌日。


1月26日、早朝。 父は眠るように旅立った。



前日の夜、私は自宅に戻り、母が病室に泊まった。

その頃、父の意識はすっかりなくなり、ただ呼吸を繰り返していた。
もちろん、私の呼びかけにも答えない。


26日、午前6時すぎ。


これまで、何十回と携帯のかけ方を教えても、たった一度も私にかけれたことがなかった母の携帯電話から私の携帯に電話がきた。


“お父さん。。。。悪いみたい。”



病院に車を飛ばす途中に、看護師さんから電話が入った。

“急変しましたので、来て下さい”


きっと、母は看護師を呼ぶよりも先に私に電話をよこしたのだ。


後に、母にこのときのことを聞いても、何ひとつ覚えていない。
私に電話したことも、父がどんな状況だったかも。

ただ、静かに眠っているとしか思えなかったのだけど、呼吸がないことで
母は私に電話したのだろう。



病室に着くと、父は本当に眠っているようで。
顔の表情で、私はただ、その美しさに安心して・・・

父の希望通り、苦しまず、穏やかな最期に、神様に感謝した。


朝日が本当にまぶしくて、空が真っ青で、暗く悲しいはずの『死』なのに、
そこには、ただキレイな光が降り注いでいて、父はその光に包まれているように輝いていて、泣いているのがすごく不釣合いなほど・・



私が悲しむことを最後まで心配していた父の声が聞こえる。

“頼むから、悲しむな、泣かないでくれ。お父さんは大丈夫だから・・・・”

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